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少し明治維新のことを調べているのですが、まだまだ勉強が足りないことを痛感しております。これはすべてのことに共通することでもあるのですが、多くのことを把握していませんと、自らの意見が浮ついたものになってしまうのですね。 諸先輩のさまざまな意見に遭遇して、驚き、納得し、疑問がわきと、さまざまな勉強をして、ようやく自分の意見を構築することができるということでしょうか。今は、アルバイトで機械直しのようなことをして生計を立てているのですが、所詮アルバイトはアルバイトですね。確かに、自らの機械をようく把握できていないのです。 機械ですから、電気のことも勉強しなければなりませんし、工具も上手く使いこなさなければならないのですが、それだけのことができないのですね。もちろん、私の立場はあくまでアルバイトですから、私自身が許してしまうのですが、本格的にやるとなると、こんなことでは済まされないでしょう。痛感しております。 それに、本格的にやるのなら、当然多くの時間を割かなければならないのですが、それが中途半端であったことを反省しざるを得ません。もっとも、ここで私のおかれた立場を説明することはできないのですが、何事につけ、一人ではどうしようもないことでもあるのですね。人を信じることの難しさに気づきました。 太宰治の『走れメロス』でしたか、内容は大袈裟ではあれ(小説というのは、当然なのです。多くの人々は大袈裟なことを好むのですからね・・・・。話は逸れますが、小説家に自殺が多いのは、自らの嘘に苦しんでいるということかもしれませんよ)、信じることをテーマにしたことは、やはり相当な鋭い感覚があったということなのでしょう。 自信を持つというのは、あらゆる意味でよくわかっているということでもあるのですね。然し、全てが分かっているということになると、そこには神様しかいないのです。ただ、人間は過ちをするのです。ですから、神さまは哀れな人間を許すのですね。 例えば、懺悔室というのがあるのですが、『お前たちは弱い人間だから、間違ってもよいのだ。悔い改めなさい』ということでもあるのですね。神さまは全能ですから、過ちさえも許すという前提があるのです。これは、おそらく多くの宗教に共通のことでもあるのですよ。大仏様の掌で人間は踊っているだけとか、『歎異妙』でしたか、今、手元に本がありませんので正確には書けませんが、悪もまた、という考え方があるのです。
年配の人ならば『神様仏様稲尾様』という言葉を、懐かしく思い出す人がいると思うのですが、西鉄ライオンズのの稲尾投手は、それほど負けることが少なかったということなのです。もちろん、神様は全能でなければなりませんから、いかに負けが少ないとはいえ、稲尾投手は神様にはなり得ないのですが、現在では打撃力が向上してなかなか神様にたとえられる人は少ないようですね。ああ、川上哲治さんも、神様と言われていましたね。それはともかく、人間というのは弱いですから、環境に左右されたり、自ららずっこけたり、転ばされたりと、災いの種はつきません。それでも、がんばるというのは、やはり命の尊さということなのでしょう。しかし、それさえも絶対的なことではないのですが・・・・・。 |