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「死」とは何かということを考えてゆくと、「生きているとは」どういうことなのかということになるでしょう。「死んでしまえば」それだけのことですから、なぜ生きているのかという問題になるはずなのです。この答えを求め続けるのが人生ということなのでしょう。 それはともかく、問題として提起されていたのは、「安楽死」とか「尊厳死」ということなのですね。人間の命を絶対的なものだとすれば、どのような形であれ、心臓が動いていることを「生」だとすれば、「安楽死」も「尊厳死」も許されることではないのです。現実的には、脳死の判定が死の判定ではありませんから、生きながらえさせることは可能だと言われております。 しかし、私の叔母などは、いつも「ぽっくり寺」に参ろうと言っておりました。つまり、誰にも迷惑をかけずにぽっくりと死にたいということなのですね。それだけではないでしょう、ショウペンハウエルなども自殺について肯定的な意見であったようですし、日本の武士道にいたっては、切腹の作法などを考慮していたようですから、死を美化していたような節があるのです。 私自身の死に対する意見はさし控えますが(死というものはいつどのようなかたちで訪れるかわかりませんからね) 、:結局のところ、「死」に対する定義の問題ではないのでしょう か。果たして、心臓が止まることを死の定義としてもよいのかということなのですが・・・・。むしろ、人間が最も人間らしいのは、脳力ということなのですね。
脳死の判定がどのようになされるのかは、専門家ではない私では無理なことなのですが、脳が眠ったままの状態に陥ったなら、それを死と判定するようにすることはできないのでしょうか。ただ単に心臓が動いているだけで生とするのは、人間に対する尊厳を無視しているように思えてなりません。もっとも、これは(尊厳死)法律の問題でもあるのですが・・・。それから、安楽死にしても、自らの意思でなされる場合はどうしょうもないでしょう。いつかインドのあるところで、壮健だったおじいさんが何も食べなくなり、やせ細って死んでしまったというようなテレビ番組があったのですが、明らかに自ら死を選んでいたのですね。子供たちもかいがいしく介抱していたのですから、締め付けられるような思いはあったのですが、おじいさんは真剣に死んでいったのでしょうね。 だから、おじいさんが立派だということではありません。何もできなくなった自分がいやになるのは、よく理解できることではあるということなのです。もちろん、老人はすでに多くの仕事をしてきたのですから、のんびりとすごして、長生きしてもらうこと自体が喜ばしいことですから、そんなに遠慮する必要もないのですね。ただ、安楽死に対する他人の干渉は絶対に許すべきではないでしょう。 いずれにしても、死というのは物理的には単純なことに過ぎないのですから、生という賑々しさをかみ締める必要性のほうが重要なことのはずですよね。 |