やはりおかしい日本の教育制度  霜月/ November 2004

答えのある問題というのは、誰でも訓練することによって答えを覚えることはできるでしょう。
教育というのは、基本的に答えがなければならないからなのですね。ですから、子供のころから激しい学習を繰り返して、ほとんど百点に近い得点を得る人だけが優秀なと言われている学校に入れると言うことなのですね。

はたしてこれらの人々に(学習優良者)に才能があると言えるのでしょうか。
多くの人々は疑問に思っているはずです。しかし、実際的には彼らこそ日本の中心にいるのです。
「すでに学歴社会は昔のこと」と言われているのに、東大慶応早稲田京大をほとんどの人々が優秀な大学だと言うでしょう。

なぜなのでしょう。

事実彼らは勉強したからなのです(実際には、仕事をするということは勉強し続けねばならないはずです)。
一般人では50点も取れないような問題をすらすらと解けるのですから、そういう人を集める大学を優秀だとするわけなのですね。
でも、才能というのはそういうものなのでしょうか。
実際の才能というのは、情熱とか勇気のある人が、何かを一生懸命にすることによって成し遂げることのできることなのではないでしょうか。


彼らは(才能ある人)は必死になって答えを求め続けているのです。彼らは答なんかないことを良く知っていますから、常に失敗をしますし、有頂天になることもあるでしょう。ほとんどが失敗ですね。
多くの人々はそのことをよく知っているのでしょう。
これは仕事をしている人ならば日常的なことでもあるからなのです。

しかし、学習優秀者と言うのは、始めから答えを得るために大変な努力をしているということでしょう。
つまり、エリートというコースがはっきりと定められていますから、勉強をするということなのです。
つまり、会社員というなかなか仕事の成果を量れないところでは、学校で勉強ができた人をエリートとして始めから優秀者としてしまうと言うことなのですね。

この教育を非常に高く評価するやり方は、わかりやすいのですが、根本的に仕事とは相容れないものがあるのです。簡単にいえば、仕事をするということと、偉いさんになるということとは違うということですね。
教育というのはそもそもが真似が大部分であり、仕事は創造が大部分であることとの大きな違いがあるということなのです。

詳しく書いているだけの余裕はないのですが、教育を主体にしますと、どうしても自立的な要素が薄れてしまうのですが、それは戦後の日本を象徴していることなのですね。
自動車の氾濫を中心とした小アメリカ化が、現代日本だと言っても過言ではないでしょう。
憲法にしても自立的な要素はありませんし、カタカナの氾濫も問題ですよね。

いずれにしても、根本的には教育への過信があると言うことであり、とりもなおさず、東大京大慶応早稲田ありきという教育制度の改革こそ、未来への橋渡しになる重要なことではないのかと言うことなのです。