投票について   文月 / July 2004
投票率はいつの選挙でも問題になっていますし、私も、いつか取り上げた問題なのですが、はっきりとした意見にお目にかからないようです。
何と言いましても、民主主義といいますのは、イラクでもアメリカの民主主義の押し付けに抵抗が激しいように、なかなか宗教とは相容れないところがありますね。
ましてや中東のように、イスラム教が毎日の生活にまで入り込んでいるところでは、神様的な存在がどうしても必要になるということなのでしょうね。
民主主義というものの基本には、個人の自由というものが根本的にあるということなのですが・・・・。

そこで、再び投票する行動に対してどのような考えをもつべきなのかを考えてみました。

民主主義においては、国民が政治的に無関心であることがもっとも危険なことであるのは間違いないことなのですが、だからといって、投票行動を義務付けることが必要であるのか。
義務であることは間違いないとしても、罰則的な要素があるのかどうかということですね。

今回の選挙において、小泉首相はつぶやくように、「投票率はそれほど・・・・・・」と言ってみえましたが、これが自民党が有利からなのか、それとも欧米における投票率が低いことをいってみえるのか、真意を図りかねるところがあるのですが、私も近頃いろいろなことに出会って、確かに投票率が高ければよいというようなものではないと思うようになったのですね。
と言いますのは、政治家を選ぶということは、政治的関心をもち、自ら意見が言えるような人であるということですから、それなりの勉強をしていなければならないということなのです。
「私は上の人の言いなり」とか、集団的に意見を統一というようなことがはびこりますと、いつまでたっても政権の委譲が行われないという事態が生じてしまうからなのですね。

勉強するというのは、学校に入るときとか、資格をとるとき、会社に入るときと勘違いしているような日本の現状において(仕事に対する真摯な取り組みがなされていないと言うこと)、組織的な有権者を持っている政党が有利なのは当然でしょう。

私の言っていることは、ちょうど小泉首相とは逆のことのようですが・・・・。
「私は上の人の言うことを聞くのが得意で、自分で判断することが苦手なのです。よろしくお願いします」ということをはっきりと言える人に対して、はたして投票行動を強要することが正しいのでしょうか。
それに、「一切、政治に関しては口を出しません」ということなら、棄権票に対してもその意義が見い出せるということですね。


ま、正直なところ、はじめは無関心でも、社会的行動が必要と気づいてくるというのが普通なのでしょう。
ですから、投票行動に対する強要というのは、確かにおかしいですね。むしろ、投票行動に対する賞賛というようなことのほうが良いのでしょう。
例えば、80才まで一度も選挙を棄権しなかった人には、銀杯を贈るとか(余談ですが、私は絶対にもらえませんね・・・)、投票者に対する宝くじということなら、投票率は上がるでしょうね。

いずれにいたしましても、現在の選挙制度には問題点が多く (例えば、選挙運動と政治活動が混濁していますし、政党に対する明確な規定がありません等々)、

良い政治家を選ぶ良い方法というのを考える必要性があるのは明確ではあるのです。



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